[温泉]元旅行会社社員の徒然日記[旅行]

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(妄想)四国八十八箇所巡拝 その1 ~言葉~

○○を旅行するとしたら、といった妄想垂れ流しの記事も書いてみたいですね。シリーズものにするなら四国八十八箇所巡拝、などでしょうか。

と書いた記事を公開する前に、この記事を公開します。(書いてみたら楽しくなってきたのでしばらく世に出ないかもしれません・・・)

順番がおかしいですが、四国八十八箇所巡拝のスタートです。

さて、この(妄想)旅行の前提を書いておきましょう。

  • 全行程を自家用車で巡る
  • 東京都某所から始め、東京都某所まで戻る
  • 有料道路は使用しない(=無料の高規格道路通行可)
  • 四国の出入はフェリー
  • 車中泊禁止
  • 参拝だけ。納経はしない、納札も納めない。
  • もちろん平服
  • 給油も考慮する

納経しないのは朱印に価値を見出せないからです。

朱印をもらってご利益がある=88の朱印を集めるために(1つ300円として)

300×88=26400より、26,400円かき集めればご利益があるとするのもおかしな話です。金集め、金積みは行(ぎょう)とは言いません。

さらに写経の価値も見出せないからです。私は仏教系の私立学校に通っていたことがあり、毎週座禅(=禅宗です)と年に数度の写経を経験したことがあります。(※信仰心はありません。勧誘はご遠慮ください(笑))

写経の効果は以下の通りとされています。(ネットで調べました)

  • 精神が安定する
  • 集中力がつく
  • 脳の活性化に役立つ

私よりはるかに写経をしているとみられる教員が上記3点に当てはまらないとみたとき、写経単体で徳を積もうなどというあさましい考えは捨てました。そのため、納経はしません。

納札・・・結願回数によって色が違い、値段も違うとはふざけています。拝金主義の極みです。もちろん持ちません。金色を持てるようになるには職業(歩き)遍路になるしかないでしょう。

服装は車ですし平服です。もし遍路をしても平服にします。白装束を着るようになったのは最近ですし、そんな格好で運転したくありません。輪袈裟・・・学校にいた似非坊主の姿が思い浮かびます。却下です。菅笠・・・車の中で被り物をするのはサーキットを走る者か交通機動隊くらいでしょう。

というよりこのお遍路ドットコムなる明治元年創業を謳う輩は「なぜ装束は白なのか」という問いに何と答えるのでしょうか。答えは・・・「仏の子として生まれ変わったから」とかふざけたことを言っています。こんなふざけた輩に金をやってはいけません。江戸時代の遍路を描いた絵の服装は白ではないのです。もし仏の子というのなら、仏教徒以外は拒絶するのが道理です。現在はお大師様の心の広さか、日本人の宗教に対する無知蒙昧、冒瀆の結果か、異教徒は拒絶されていません。(各札所の宗派が異なることから、どれも的を射ないような気がします)

さらにふざけた記述を見つけました。閏年(4年に1度)は逆打ちのご利益が6倍と抜かしています。この話は閏年に遍路をしていたらお大師様に会えたという伝説から始まったはずです。当時は和暦であり、現在の暦とは別物です。和暦の閏年は19年に7回閏月がある年のこと、現在の暦での閏年は4年に1度(400で割り切れるときは除外)です。つまり、現在の暦で閏年にあたる年に逆打ちをしてもご利益は6倍にはなりません。そもそも、お大師様は「現在の暦で閏年だから遍路をする。ご利益は6倍だから得だろう。」という似非遍路などお見通しなはずです。信心のない、ご利益を信じない私にも理解できる道理です。

金剛杖も・・・今現在、遍路途中で行き倒れになって埋葬ってないでしょう。(原則、土葬禁止)卒塔婆を持ち歩く理由ってありますかね?車遍路スタンプラリー遍路があるなら、ストラップにしても良いのでは?車の鍵に付ければ燃費が良くなるとか、と思う不心得者です。

給油(今は給電の場合も)は車旅なら当然です。まさか給油(給電)お接待という珍妙なものはありませんよね。

四国八十八箇所巡拝ですが、間違っても「遍路」ではありません。四国八十八箇所巡りを行として認識せずに車で巡るだけのにわか者ですから、(歩き)お遍路さんと一緒にとらえてはいけません。車で巡ることを否定しませんが(自分も書こうとしているわけですし)、それを「遍路」と呼ぶのは反対です。また、順打ち、逆打ち、区切り打ち、乱れ打ちの定義が分かっていないまま使う人もいます。

※追記※

ご本人からコメントがあったので一部削除しました。また、意味が通じるように修正しています。

順打ちは時計回りに回ること、逆打ちは反時計回りに回ることです。順打ち、逆打ちはありますが、それらと区切り打ちを並べて書くのは間違いです。

順打ち、逆打ちは進行方向に対する言葉です。それに対して区切り打ちは回り方に対する言葉です。時計回りなら番号を入れ替えても順打ち、逆打ちになります。徒歩ですから、無意味に遠回りはしませんよね。番号はあくまでも番号でしかありません。参拝する順番ではないのです。さらに順打ち、逆打ちに関わらず始める札所の決まりはありません。1番から打ち始めても良いですし、44番から打ち始めても良いのです。また、(例えば)1番から順打ちをした人が88番に着いたとき結願したというのも、私としては間違いです。88番から1番の間は歩かなくてよいのでしょうか?それが許されるのなら、札所の間は場所によって80kmほどありますから、そこを歩きたくない人はその区間を挟むように始終点を定めてよいということになります。

(これを見て24番→23番、38番→37番なら歩く距離を少なくできると考える似非遍路は罰が当たるでしょう)

区切り打ちと並べて書く言葉は通し打ちです。通し打ちは全行程を徒歩と渡し船以外の手段を使わずに歩き通すことを言います。お大師様が海を泳いで渡ったと信じる人は別として、お大師様も渡し船には乗ったでしょうからね。種崎の渡し船が良い例ですが、浦戸大橋が無かった時代の人も浦戸大橋を渡ったのでしょうか。違いますよね。

よく通し打ちだと(遍路をしている本人も)誤解しやすいのが・・・

  • 宿についてから車で温泉に行った
  • ある地点からタクシーで番外霊場に行き、同じ場所まで戻って歩いた
  • 疲れたからある地点まで迎えに来てもらい、翌日同じ場所まで送ってもらって歩いた

これは通し打ちではなく区切り打ちです。歩き通してはいませんよね。行程を区切って歩きつないでいるのですから、区切り打ちです。

例えば列車やバスで1番→10番→20番と回った方がいたとします。

このような巡り方は区切り打ちとは言いません。区切り打ちは行程を区切って歩き通すものです。万が一にも列車・バス遍路が遍路だとしても、この回り方は区切り打ちではありません。2020年9月まで、これを指す言葉はありませんでした。それもそのはずで、交通機関が無かった頃は適当に回ることができなかった(するならばかなりの変人です)のです。現在、この回り方は気儘打ちという名前が提唱されています。私も使おうと思います。気になる方は調べてみてください。しかし、くどいようですが渡し船以外の交通機関を使うのは遍路ではないので、私は気儘打ちとも言いません。

それではシリーズ(妄想)四国八十八箇所巡拝スタートです。

このシリーズの次の記事は四国上陸手前くらいまでは書きたいですね。本州の走行に記事数を割くわけにはいきませんから。

そうそう、なぜ遍路(巡拝)をするのかという質問はご法度です。世界中の参詣路でも同様です。まさか、カトリック教徒ではないのにコンポステラ”巡礼”なるものをして、「どうしてコンポステラ巡礼をしようと思ったのですか」と聞いた人はいませんよね。

カトリック教徒以外のコンポステラ”巡礼”はNGです。異宗教の宗教行為を(改宗の意思なしに)行うことは冒瀆の極みだからです。異論がある方はお知らせください。詳しく解説している他の方の記事をお伝えします。

 

P.S

月曜日と木曜日の週2回投稿出来れば、と思い始めました。(思っただけなので期待なさらず・・・投稿頻度が増減するかもしれません・・・)